星が好きなの、嘘だけど
かわいい、かわいい、かわいい!
今日もカクさんはかわいい。
ガレーラカンパニーの朝はそんなに早くないけど、私の朝はわりと早い。なぜなら、私がひそかに恋焦がれているカクさんが、始業より三十分くらい早く出勤するからだ。
カクさんは歩いて出勤することは稀で、大体空から降ってくる。だから、朝は本社の玄関先が唯一の目撃チャンスだ。今日はちょうど、本社の玄関を目指して歩いている私の数メートル先に、屋根からシュタッと降り立ってくるところを見られたからラッキー。このために早起きしたようなものだ。
カクさんは私の前を歩いていた秘書のカリファさんをめがけて着地したみたいで、カリファさんに眩しいほどの笑顔で「今日は朝から暑いのう」と話しかけている横顔が見える。ほら、かわいい。
カクさんは。お昼は余裕があれば外に出てお店で食べたり、社員食堂を利用したりしているみたいだけど、天気がいい日は職人さんたちと現場で軽食を食べていることが多いふうに思う。
だから私はわざと一番ドックを通って街に出る。さりげなくあたりを見回して、耳をそばだてて、カクさんたちがどのへんにいるかあたりをつけて、不自然じゃないくらいのルートを探して……。この動作にももう慣れた。見つけたら、遠くからなんとなく眺めて、近くを通るときは決してそちらを向かないようにする。
今日はまだ使っていない資材を椅子代わりに、パウリーさんとルッチさんと、三人でパニーニを頬張っているみたいだ。彼らの横を通り過ぎるとき、パウリーさんの「カクの食ってるやつの方が旨そうだな」という声が聞こえて、カクさんの「そうじゃろ? やらん」という楽しそうな声が続いた。ほら、顔が見えなくなってかわいい。
夕方は一番の運試しだ。そもそも毎日定時にあがっても、ほんの数分ずれるだけで見かけるのは難しくなる。工期の進捗次第では、私が帰路に着くころでも金槌の音が響いていることもあるし、私だって残業することもある。実は夕方にタイミングがあったことは一度もなかった。
今日は珍しく朝も昼も会えた(正しくは見かけた)から、さすがに帰るときまでなんて欲張りかなと思って、沈んでいく太陽で染まる空の青と赤のグラデーションを眺める。無理かもと思っていても、空に彼のシルエットが浮かび上がらないかと探してしまうのは、もはや習慣に近い。
そうやって、空を見上げながら歩を進めようとすると、
「おーい、落としたぞ」
と後ろから声をかけられて慌てて振り向いた。そしたら、
「カクさん!」
「そうじゃが」
なんでなんでなんで! いや、なんでってことはない。カクさんの手には、さっき取り出してバッグに仕舞ったと思った私のパスケースが握られていた。社員証を入れているパスケースだ。
となると、……社員証の写真、見られたかな? 採用されたときにぎこちない笑顔で撮った写真がずっと使われているから恥ずかしい。あんまり写りも良くないし……。そう思ったら、なんだか緊張してしまって、失礼なのはわかっているけど、カクさんの顔をまともに見られなくってしまう。
そもそも、仕事中にカクさんを見かけるだけで満足していたくらいの私だから、今日まで話したことなんて実はたった一度しかない。書棚の上に仕舞ってあった昔の書類を、通りかかったカクさんがひょいと取ってくれて、その時に交わした「ありがとうございます」だけだ。私は、それっぽっちの交流でまんまと射抜かれてしまったわけだけど。
今日は記念すべき二回目の会話だけど、あれ以上の接点もないし、そもそも私を私と認識しているかも疑わしいくらいなのだから、会話なんて続くわけがない。
「あ、ありがとうございます。助かりました……」
「社外じゃなくて良かったのう」
これで今回も終わり。
俯いてカクさんの顔を見られないまま、半ば震える手でパスケースを受け取る。そのままさらに深く腰を曲げてお辞儀をして、帰ろうとすると、なんとカクさんはそのまま横並びで一緒に歩いてくれるじゃないか。
あれ、これ一緒に帰る感じ? いや、全然いいけど! いいんだけど! むしろ嬉しいけど! どこまで?
カクさんの住んでいるところなんて、エリアですら知らない。どこまで一緒に歩いていいのかわからないから、曲がり角や分かれ道に来るたびに、「あ、の、私はこっちです」と小さな声で恐る恐る確認する羽目になる。
いつ、「じゃあ、ここで」と言われるかひやひやした。できることなら、もう少し。次の角まで。そう思いながら、一歩一歩、祈るように歩く。
カクさんは足が長いから、普通に歩いたら私は絶対ついていけないはずなのに、歩幅をぐっと狭めて歩いてくれているみたいで、私はカクさんに置いて行かれることもなく、とても自然にいつもの調子で歩けた。頭の斜め上の方からカクさんの声が落ちてくるのは初めてだ。
「さんとこは、仕事は落ち着いたか?」
「そう、ですね。概ねは……、って、私の名前、知ってるんですか?」
「ん?」
「あ、さっきの社員証?」
「いや? 名前は前から知っとったぞ」
「え!? なんで……」
うっかり、カクさんの顔を見てしまった。カクさんは前を向いているから、目は合わない。
え、なんで私の名前を知っているんだろう? 絶対、と確信できるくらい、話したのはあの一度きりのはず。てことは、良くない噂でも耳に入ったのかな? でも、私みたいな目立たない社員が、どうやって噂の人物になれるというんだろう。全然わからなくて、縋るようにカクさんを見た。
「なんでって……、なんでじゃろうな」
カクさんはううん、と考え込むようにしたあと、「でも、さんもわしの名前、知っとるじゃろう?」とぱっと花が開くように笑って、こちらを見た。
「カ、カクさんは、有名だからっ、……誰でも知ってますよ」
ちゃんと目が合ったのは初めてかもしれない。カクさんの笑顔は、まさに満面の笑みといった様子で、目は弓なりに細くなっていて、口は半月を横たえたみたいに大きく開いていて、白い歯が光る。それでも今、カクさんと私は目が合ってるな、ってわかった。
ずっと見ていたい。でも、ずっとは見ていられないからそっと前を向く。だって前を見て歩かなくちゃいけないし、顔は赤いと思うし、今気が付いたけどリップも塗り直してないから、たぶん色が落ちちゃってる。あれ? 唇ガサガサかも……。
「そうかのう。まあ、有名かはわからんが、そうか。確かによく街の子らに呼ばれるわい」
「じゃあ、……良くない、噂? とかですか? 私、何かしたでしょうか?」
「違う違う! ううん……、そんな誤解させるのも忍びない。白状するか」
「ぜひ」
「同じ部署のやつに聞いたんじゃ。あの子の名前は、って」
「え?」
またカクさんを見ちゃう。
シンプルじゃろ? カクさんは照れ臭そうに笑っているけど、私はそれどころじゃない。今度は“なんで聞いたの?”と新しい謎が増えただけだ。全然すっきりしない。
私にとってカクさんは仕事の出来る優秀な職長で、明るくて慕われているみんなの人気者で、誰にでも優しくて、気さくで、かわいくて、そういう存在だからこそ、遠くから眺めているだけでぽっと心に明かりが灯るような嬉しさがあって、出勤して帰るまでに僅かな時間でも見かけたらそれで十二分に幸せだったのだけど。
カクさんは照れついでに、といった様子で、おずおずと切り出した。
「……わしはさんの名前と、帰る時間以外も知りたいんじゃが」
「帰る、時間って……?」
「わしは帰るとき、よくさんを見かけとったよ」
後ろ姿じゃけど、と続く。
まさか後ろにいたなんて! ずっと空を見上げていたのは無駄だったのかとがっかりする気持ちと、やっぱりこれはちょっと、ひょっとして、ひょっとするかも、という気持ちとが綯交ぜになって気分の乱高下が激しい。
理由は全然わからないけど、カクさんは私の名前をわざわざ別のひとに聞いて、帰るときに私を見かけたら「さんだ」と思ってくれるくらいには、私を認知しているようだ。いい方の興味、もたれてる?
「お近づきのしるしに、これから食事でもどうかのう?」
「ふふっ……、もう“お近づき”ました? これから、じゃなくて?」
「お、ちゃんと笑っとる。初めて見たかもしれん」
「んんっ、……私で、良ければ」
なんだか勝手にキラキラと憧れていた人の輪郭がくっきりとなってくる。
私も、カクさんをただ眺めて満足するだけじゃなくて、もっと色々知って、もっと好きになりたい。あれ? と思うようなこともあるかもしれないけど、きっとそれよりずっと好きなところがある気がする。
カクさんが、そうそう、と思い出したように聞いてきた。
「さん、帰り道はよく空を見上げとるじゃろ? 星が好きなのか?」
あなたを探していたの、とはまだとても言えなくて、私はしばらく星が好きなふりをする羽目になる。