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水の都で過ごした

密やかな延命措置

 じりじりと太陽の照りつける季節となった。見上げれば広がる空はいっそう青く、海との境界がひどく曖昧だ。でも、はるか遠くにそびえるがごとく立ち上る積乱雲がその二つを明白にする。色は洗い立てのシャツなんかよりもずっと白い。足元の影は濃く短く、太陽が高い位置にあるのだとわかる。街に血管のごとく張り巡らされた水路を満たす水は豊かに流れながら、太陽の光を四方に乱反射させるものだから、街はきらきらと光をまとい、一段と美しくなる。これがこの島の夏だった。
 そんな島で、ぐんぐん上昇する気温に比例し、肌の露出が多くなるのは必然というもの。今日は昨日より風があるが、それでも気温は高い。薄い青色のノースリーブシャツとタイトな白いミニスカート。そこに、あまりヒールの高くないパンプスを合わせた。これくらいの格好をした女性ならこの島にあふれかえっているし、なんなら職人のみんなの方がよっぽど薄着だ。それなのに、出社した途端パウリーは相変わらずうるさくって、やっぱり今日も、カリファ! と顔を真っ赤にしながら怒鳴り散らされた。今度から気をつけるわ、と笑顔で言いながら、気をつけた試しは一度もない。
 たまりにたまった書類の山。今日こそは、彼がいくら嫌だとごねても、片づけてもらわねばならない。彼が目を通し、判断し、許可をし、指示するための書類ばかりなのだ。複数部署からかき集めたそれを社長室へ一度に運んでしまおうと、カリファはそれらを高く積み上げ、慎重に持ち上げる。よろよろと歩き、苦労して執務室のドアを閉めた。
 いくつかの角を曲がり、階段を上り、道中の部署に寄り、時折落ちそうになる書類を慌てて押さえる。そんなことを何回か繰り返したところで、長い廊下の向こうから大声が響いた。

「カリファ! お前は何度言ったらわかんだよ! このハレンチめが!」
「パウリー!」
「あ?」

 私の明るい声音に、パウリーが怪訝そうな顔をしたのが見なくてもわかった。

「半分、持ってちょうだい」

 書類で埋まっていた視界がすぐに開けたのが彼の返事だった。心底面倒そうに眉と口を歪めてはいたが、それでも彼は、頼んだ半分よりもはるかに多い量の書類を引き受けて、私と並んで歩いてくれる。

「ったく、何度言わせんだ! 腕と足と首を布で隠せ!」
「好きな服くらい好きに着させてほしいわ。大体、タイルストンはどうなのよ」
「あいつは男だろうが」
「差別だわ」

 カツカツと細い足音と、ドスドスという鈍い足音が、長い廊下でこだまして帰返ってくる。合間にパウリーの低い声と私の声が行き交った。本社は広く、廊下は長いが、社長室はもうすぐだ。
 コンコン、と軽いノックのあとに続くはずだった、入れという許可はついぞ下りなかった。アイスバーグさん? とパウリーも声をかけるが返事はない。

「失礼します」

 そう断ってゆっくりドアを開けるが、そこにいるはずの彼の姿はなく。カーテンがはたはたと揺れているから窓が開いているのだと分かった。主の不在は明確だ。共犯はカクだな、と面白がるパウリーに残りの書類を全部預け、慌てて社長のデスクに駆け寄ると、デスクの上には‟外にいる”という走り書きのメモだけが残されている。パウリーが他人事のように、一足遅かったなとまた笑った。
 恨めしそうにパウリーを睨んでから、深く、大きく、一度だけため息をつく。大抵のことは先回りできるのに、彼のことだけはなかなか予測できない。頭の中でもう一度スケジュールを組み直した。目障りなメモをくしゃりと握りつぶしながら、カクへの文句も考える。
 おい、この書類──……パウリーの言葉は、急に吹いた風の音でかき消された。書類がバサバサと音を立てて吹き飛んでいく。一瞬、風の名を持つ弟分が社長を連れて戻ってきたのかと思ったが、そんなことはなかった。ただの風で、書類が舞うだけだ。

「こらカリファ! ぼさっとしてんなよ!」

 とパウリーが書類をかき集めながら怒鳴る。でも風はすぐおさまって、書類は絨毯の代わりみたいに床に落ち着いた。パウリーがうんざりした様子で拾い集めながら、カリファ! とぼうっと立ったままの私の名を呼んだ。
 足元の書類から拾っていき、足の踏み場をつくりながらパウリーのそばで落ちた書類を手に取っていたら、彼は珍しく私の足を凝視していた。無遠慮すぎて清々しいくらいに。そして、さっきから気になってたんだがよ、とはじまって、右足怪我してねえか? と続いた。

「え?」

『ルッチ? ちょっと相手をしてくれない?』
『……おれが?』
『カクやブルーノは私を気遣ってくれるのよ』
『おれに気遣いがないとでも?』

 気に入らない客でも蹴り飛ばしたのか!? とパウリーが見当違いなことを叫んで、私は心が冷えた。まさか。そんな。この怪我は。

「そんな人聞きの悪い。慣れない靴でちょっと挫いただけよ」

 嘘をついた私を責めるみたいに、また風が吹く。また書類を飛ばされるのはごめんだと、パウリーが慌てて窓を閉めたのに、風はしつこく窓をガタガタと揺らした。

『ッ──!』
『おいおい、おれはガードしただけだぞ。鍛え方が足りないんじゃないか』
『……』
『今日が‟任務最後の日”でなくて良かったな』

 ったく、手のかかる秘書だ、と言い捨てたパウリーは、書類を拾うのもそっちのけで社長室から出て行ってしまった。なによ、と思いながら書類を拾い集めるついでに、ぼんやりと昨日の夜のことを思い出す。ルッチに掴まれ、砕かれそうになった右足首をそっと撫でると、じんと痛んだ。ルッチの言葉とそのときの表情を思い出すと悔しさで奥歯が軋む。実のところ、足首の痛みはどんどん増している。でも、これみよがしに包帯を巻くのは癪で、冷やす程度の手当てしかしなかったのだ。

「おし、そこ座れ」
「どこ行ってたの」
「要りそうなもの全部持ってきたんだよ」

 包帯やら湿布やら氷やら、いろいろなものを抱えるようにして社長室に戻ってきたパウリーは、ドクターのやつ、また二番ドックだと、とぼやいた。そして、来客用の黒光りするソファに私を座らせると、段取り悪く手当の準備を始める。

「挫いたのか?」
「え、ええ。痛めたというか」

 ルッチに骨から砕かれそうになったのだとは言えない。パウリーは私の言わなかったことには気づかず、じゃあ冷やせばいいんだよな、とぶつぶつ手当の確認をして、氷水に手拭いを浸して絞ると、私の右足首にあてがった。鈍痛が冷たい手拭いに吸われていくようだ。

「嫁入り前の大事な体だろうが。もっと大事にしろよ」
「そうね。気をつけるわ」
「思ってないだろ。じゃじゃ馬め」
「ひどい! 父親みたいなこと言わないでよ」
「おれがお前の親父ならこんなハレンチな服は着せねえよ」

 軽口をたたくパウリーのつむじを見下ろしながら、彼がこんなふうに私に跪くのは初めてだなと不謹慎なことを考えた。
 そんな私を見透かしたわけではないだろうに、パウリーは不意にこちらを見上げた。ばつが悪いが、目を逸らせば不自然だ。視線はそらさない。

「ちゃんと、大事にしろ」

 子供に言い聞かせるようだった。
 パウリーの真剣な眼差しに鼻の奥がつん、としてくる。だって、パウリー。この怪我は。あなたを。あなたたちを。
 私がうんと言うまで、パウリーは私を見つめていて、私が首をこくんと動かすと、ふっと下を向いて笑った。風はいつの間にか凪いでいた。

『おい』
『なに?』
『おれを責めてるつもりか?』
『あら? 気づいてもらえて嬉しいわ』
『……悪かった』

 包帯が取れたら。私はまた、あなたを倒す練習をする。



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